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Οὐρανός会を終えて


空飛びの会の3ヶ月が終わった。8月中旬に谷中の脱衣所というスペースの屋根裏部屋で靴磨きをした。そのときにまとめたことと、空飛びの会の意図していたことと重なったため、「屋根裏部屋の夢磨き」のテキストをこの「Οὐρανός会を終えて」の締めくくりとして、引用した。もう夏も終わりだ。



屋根裏部屋の夢磨き


おーバクよ、おーバクよ

私に空を飛ばせておくれ

そんな無茶なことを言うな

飛べるはずだ、ここは屋根裏部屋だから


待て待て、人の背中に翼は生えない

天狗でも天使でもないんだから

いやいや、ヘルメスの踵に翼が生えてる

そうか、人の翼は、靴だな、靴


あそこに地に足のついていない者がいる

あれはゴリオ爺さんだ

あそこに地に足をつけている者がいる

嘔吐と胃痛で苦しんでいる


飛びたいのなら、足を宙に浮かせなさい

そうそう、思い上がりなさい

空はあなたを待っている

待て待て、トランポリンを用意するから


さあ、私が靴を磨こう

ゴリオ爺さんになってもいい

救いの裏には罪があるんだ

償おう、そして許しを得よう

今こそ飛ぼう、落ちる前に上へ上へ

死ねと言っているわけではないから



「家が、夢想を匿い、夢見る人を保護し、我々に安らかに夢見せてくれることだ。夢想には人間の深部を指示する価値がある。夢想は自分の存在を直接楽しむのである。したがって、人が夢想を生きた場所がまたひとりでに新しい夢想の中に復原される。なぜならば、過去の住まいの思い出が夢想として生きられ、これによって過去の住まいが我々の中で不滅のものとなるからである」(バシュラール「空間の詩学」)


 個人の安心かつ安定した心的空間(安永浩「ファントム空間論」)や生活空間をつくるためには、ビンスワンガーの言う「垂直方向」と「水平方向」のバランスである「人間学的平衡」を考えざるを得ない。これは実存レベルでの話である。


 「垂直方向」は、思い上がること、宗教性が高まること、自己中心的かつ妄想的であることなどの点から、本人にとっては気持ちがいいが、周囲の人にとっては理解されにくく、どちらかというと不和が生じる可能性がある。一方、「水平方向」は、周りの様子を伺う、コミュニケーションをとる、友達を作る、保守的かつ社会的にふるまうなどの点から、本人にとってはひどく気を遣うことになるが、周囲の人とうまくやっていく、和をつくっていく方向でもある。


 私の直観ではあるが、昨今の日常生活で、特にパブリックでは表面的な水平方向に傾きすぎて、深いところで垂直方向に向き合う機会、すなわちダイナミックに空を飛ぶ機会を失っているように感じる。もちろん安易に機会を増やす必要はないが、これは日常生活の中で、他人には簡単に話せない「切実かつ複雑でセンシティブな主観」を表現することの難しさと似ている。それは精神科医として臨床現場で多く体験したことでもある。


 バシュラールは「空間の詩学」の中で、家における垂直方向(鉛直方向)について、屋根裏部屋と地下室を対比しながら述べている。特に屋根裏部屋は合理的に夢想するのに最適な場所であり、理性的に思い上がれる空間となっている。


 また、そんな屋根裏部屋で夢想をした人物として、バルザックの「ゴリオ爺さん」を取り上げたい。ゴリオ爺さんは愛する2人の娘のために自らが築いた全財産をすべて使い、2人の娘が何不自由なく贅沢をさせることができたが、最終的に屋根裏部屋で死んでしまうゴリオ爺さんのもとに、2人の娘は現れなかった。シェイクスピアのマクベスに似た悲劇的なお話である。


 しかし悲劇の中には必ずある部分に喜劇もある。その喜劇がなければ悲劇は成立しない。メディアの報道では悲劇が悲劇のみしか伝わらないのが、いつも残念で仕方がない。一つの事件や出来事にはもっと複合的な意味合いや人の思いや葛藤、矛盾があるものだから。バルザックは「人間喜劇」としてそれを描いたのかもしれない。


 そんなことを考えつつも、機械なしで人間は空を飛べるのか。空を飛ぶための翼はあるのか。人間の背中に翼は生えないが、ヘルメスの踵にはなぜか翼が描かれている。恋慕している人や思い上がっている人、調子に乗っている人は、なぜか足が地から離れ、宙に浮いているように見えてしまう。それは人間の翼は靴だからであろうか。それなら、空飛ぶ前に靴を磨く必要があるだろう。そうだ、靴を磨こう。そして、空を飛ぼう。


参考資料 :

安永浩「ファントム空間論」

ビンスワンガー「統合失調症」「思い上がり・ひねくれ・わざとらしさ」

バシュラール「空と夢」「空間の詩学」

バルザック「ゴリオ爺さん」

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