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Πόντος会を終えて


 今年の滝落ちの会が終わった。水はやはり優しい。どんな優しさかというと、流れていく優しさである。火や土や空と大きく違う点は、流動的であること。どんなことでも軽やかに、流して、清めてくれる。しかし何か寂しさが残る。音も、まるで雨が降っているような感じで、屋内でぬくぬく孤独に過ごしているような気がしてくる。



 京都の岩倉にある大雲寺に2本の滝がある。ここは日本の精神医療の聖地である。大雲寺の滝の上には石でできた神棚があるが、当殿の滝の下には木でできた神棚がある。この垂直方向の意味合いは大きい。建築物に滝行をしてもらっている。もう人に滝行をしてもらっても、パッとしない。なぜか音や印象が全然違う感じがする。滝行の意味合いが、滝に打たれた途端に、散々に砕けていく。その後、砕けた水たちは、浴槽に回収されるものと、回収されずに自由に流れるものの2つに集約される。そうしているうちに、浴槽の水は溢れ出てくる。小さい時に家族皆でお風呂に入った瞬間に水が溢れる勢いとは、別の溢れ方である。常時水が入れば、その分いやその分以上に水が溢れ出ていく。新しく入った水が出ていくのか、ずっと入っていた水が出ていくのか。そこには自己と他者の境界がわからなくなるくらい、水と水との境界がわからなくなる。はじけてから、また一緒になる。自己と他者も、共同体という境界がわからなくなるようなものに入ったり出たりすることで、人と人とがはじけて、また人と人が集団になり、また離れて、それを繰り返す。以下は去年の滝の様子である。



 滝落ちの会で、神様という存在の場所について考えたとき、上なのか下なのか、それはニーチェの言う超人か俗人かと同じで、どっちでもありえて、行ったり来たりするように思えてくる。人と人との対話は、垂直方向に動く水から、水平方向や放射状方向につながる柔軟で流動的な水になるためのひとつの可能性だと思うが、対話やコミュニケーションには人それぞれに役割が付いている。それをどうしたら、はずしていけるのか。一回、役割をなくしてみたいと思うが、役割がないと、人々は不安になる。そこの場所に居続けることが難しくなる。ボーとしながら、時間をかけて、そのコミュニティを水のようにやわらかくしていくと、そこには水溜まりができる。その日だけの水溜りができ、水が蒸発すると、そこに痕跡が残る。最後に水は消えてしまい、そこには誰もいなくなる。しかしその痕跡をたよりに雨が降り、水溜りという明日が来るのである。


 今日は明日のためだとか、そんなことはなく、今日は今日であってほしいと思う。どんなに滝に打たれ、びちゃびちゃになろうが、大きく羽を伸ばして飛べるようにしておきたい。災いを転じて福をなすように、思い上がり、ひねくれ、わざとらしくありたいのだと思う。


 蝋燭の火は、なぜか心拍数を増やした。何かがはじまるきっかけになるのか。リラックスというよりは、事件の前触れを感じるような恐怖や期待のいりまじる気持ちで満たされる。来年1月からは焚き火の会がはじまる。

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