以前はよくあったが、今でも浴槽の水を洗濯機の水として使う人も多い。
最近、電気と宗教をテーマに考えてきたが、そのテーマが生まれたのは、以下のことを考えたからであり、「電気が生まれてから使えるようになるまでの過程を簡単に追想できない」ということ。どうやって電気が作られ、どうなると電気を生活の中で使えるようになるのか、本当にわからない。おそらく資料を読めば理屈ではわかるのかもしれないが、日常としての身体的な実感が全然できない。この引き裂かれた溝の中に生まれた神秘をどうやって解消できるのか。
そこには、まず既存の電気機器を通して、原始的な発電を夢見るしかないのかもしれない。そのために6月までは焚き火をしてみた。
今回、テーマは水ということで、浴槽→洗濯機という水の流れを、洗濯機→浴槽へと時間が逆方向に向かう行為を「滝を作る」というところから実践してみた。
滝は、水の流れを主体として、何かにぶつかることによってその流れに屈折を生じさせる。それは、まるでありきたりのことが、ふと違った位相へずれ込んでいくような可能性を感じさせる。そこには一定であるはずの時間すらも、その客観性を失い、主観性の強い時間を帯びてくる。そして他者との会話を通する、すなわち間主観という装置が挟まれることで、主観と客観の以前の場所(メタコイノン)を作り上げられるか。
通例の第4金曜日8月27日に「罔象能売の会」を開催します。
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