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‎ポーの死んだ水 〜 גַברִיאֵל会を終えて〜

もうやらなくていいでしょう。

土に生えていた雑草までもが死んでしまった。

茶色が全体の80%、黄色が2%で、緑色は1%と数えていくうちに、色の名前のせいで、土や小石や枯れた葉っぱが象徴化されていくことに気がつき、うんざりする。

浴槽の水を洗濯に使うことの逆転のため、洗濯機から浴槽への水の動きを実験してきた。洗濯機は解体され、その中に神棚を浮かすこともあった。なかなか自然の滝に近づかなかった。そう簡単に、滝と電化製品がマッチするわけがないのだ。結局、縄で何でも釣り上げておけば、何かしらの問題がそのままの状態で保管されてしまうような気がする。まるで現象学で言われる判断を保留するエポケーのように。滝にはもうすでに水は必要なくなり、代わりにホースや縄に変わることもできてしまうのではないか。目に見える水よりは想像上の水の方がじつは自分の意図が感じ取れてしまうような気もする。「水道水がもったいない」という幻聴に従いざるをないのか。もしくは、水から空に移行するきっかけなのか。


ところで、今回のポーを参照しながらの滝作りでの成果は、水が水道からホースをたどり、洗濯機から浴槽に流れないひねくれた水たちが、パイプや焚き火台を通り、土の中に入っていく景観がみれたことである。土に帰る水は、自然の川や谷を連想され、ここがビルの屋上であることを一瞬忘れさせる。水は流れ、川になり、停滞し湖になる。その後じわじわと土場の下に濾過されるように水が引いていくと、沼になる。これが死にゆく水、溺れる水で、水害後の人間の死を連想させる。ポーの真意はわからないが、答え合わせをしたような気になる。また「景観庭園」という言葉があり、ポーの「アルンハイムの地所」という小説の中に出てくるのだが、そこでのエリソンという人物の生き方に共感しながら、この言葉の意味をもう少し誤読し、メタコイノンの「屋上庭園」をどう作るか、今後も考えていくのだろう。



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