2020年、東京都杉並区下高井戸に宗教施設「電気神殿メタコイノン」を設立。2026年4月に中央区日本橋馬喰町へ移転した。
電気神殿メタコイノンは、「モノ」よりも「コト」を素材としてつくられる神殿である。
それは「精神」「建築」「宗教」のいずれかにも属するのではなく、そのちょうどあいだに生まれる場所である。
神殿の根底には、「Ηλεκτρισμός(イレクトゥリズモス:電気)教」という宗教がある。ただし勧誘はしない。なぜなら、すでに電気を使っている人はみな入信しているからである。
かつて人間は、地・水・火・風の中に世界を見い出した。火を囲み、水に触れ、風を感じ、土の上に立つことで、自分が世界のどこにいるかを知った。
しかし、現在、私たちはもう一つの見えない元素に取り囲まれている。
電気である。
電気は目に見えない。けれども、光となり、熱となり、音となり、情報となって、私たちの身体と世界のあいだを流れている。
スマートフォンを通して他社に触れ、インターネットを通して世界を知り、電波のなかに自分の居場所を探す。
電気はもはや道具ではなく、自己と他者、身体と世界をつなぐ環境そのものになりつつある。
電気神殿では二つの方向から電気について考える。
ひとつは、地・水・火・風という自然の元素から、電気へと近づけていく「過去志向型アプローチ」。
もうひとつは、電化製品や人工物を、川・山・海・空といった自然へ再び近づけていく「未来志向型アプローチ」である。
地・水・火・風から、電気へ。
電気から、まだ見ぬ自然へ。
その二つの運動が交差する場所に「現在」がある。
私たちは、その一瞬を「今という祝祭」と呼んでいる。
電気への信仰がよいともわるいとも思っていない。
むしろ問題なのは、私たちがこれほど電気に依存しながら、その存在をほとんど意識していないことである。
電気は、見えない。
けれど、いつもそこにある。
それはどこか、かつて人間が「神」と呼んだものに似ている。
私は毎年、お正月になると変電所へ初詣にいく。
あと100年もすれば、人々は神社ではなく、変電所や発電所、データセンターへ初詣に行くようになるのだろうか。
そこで手を合わせるのか。
スマートフォンをかざすのか。
あるいは、人間と機械を区別すこと自体がもう意味をもたなくなっているのかもしれない。
私たちは電気を作った。
しかし、同時に、電気によって私たち自身もつくられている。
自然と人工。
身体と機械。
自己と他者。
生と死。
それらが分かれる、その少し手前に立ってみる。
「メタコイノン」とは、自己と他者、主観と客観が分かれる以前の場所である。(アルトゥーる・クローンフェルト)
電気神殿メタコイノンは、その「別れる以前の場所」を、電気を通して探すための神殿である。
機械人間である私たちは、
何を信じ、
どのような世界に住み、
どのような存在として、
死に向かって生きていくのだろう。
電気神殿メタコイノン 管理人
