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聖典つくり 原案



私たちは、地水火風というものが、実生活にどのように浸透しているのか、解るところもあれば、解らないところもある。電気も地水火風から作られていることは知っているが、実際に地水火風から電気になるまでの経路を全て説明できる人は多くない。


火を使って人間を助けたプロメテウス、自殺のため火山に飛び込んだエンペドクレス、黒沢清の映画CUREで火を用いて催眠殺人をさせる伝道師など、火は現実世界の中で人の生死と接点を持つため、神話や御伽噺などに使われてきた。そして「古事記」でも電気の神であるタケミカヅチ(武甕雷)は、火の神であるカグツチ(迦具土)の血より生まれたと言われている。

また、火は人間にとって「自己の存在」を回転させる「ルーレット」の役割もある。それは、イルゼが両親を仲直りさせようと、暖炉の火の中に手を入れた行為(ビンスワンガー『精神分裂病Ⅰ』)を思い返せば、想像できることだ。火は、自己や他者の存在を良くも悪くも揺らしずらしてしまう賭博的な要素があるのだろう。それは「火遊び」という言葉からもわかり、チャンスにもピンチにも転がりうる。


池の水に映った自分に酔いしれたナルシス、浄化作用を示す禊、死と水の結合である三途の川を渡れるか判断するカロン、女性美を奏でる溺死したオフィーリア、黒沢清の映画CUREで水を用いて催眠殺人をさせる伝道師など、水は癒しや人の生死への影響力を持ち、人の物質的想像力を掻き立てる。そのため、神話や御伽噺などに使われてきた。そして「古事記」でも創造の神様であるイザナミノミコト(伊邪那美尊)の尿から水の神様であるミズハノミノミコト(罔象能売尊)が生まれたと言われている。

また、水は人間にとって飲むことで生命を維持するための役割もある。一方で、慢性期統合失調症の患者さんの20%が多飲水、14%が水中毒(水を飲み過ぎて、体内の塩分が足らなくなってしまうこと)になると言われているが、実際に原因は、精神症状、薬の副作用、口渇感などのためと言われており、未だにはっきりせず、個別性も高い。死に至るほど飲んでしまう水とは、どんな力が宿っているのか、臨床現場では色々考えさせられてしまう。水は自己の存在を良くも悪くもわからなくして、再度考える機会を与えてくれるのだろうか。


空を飛ぶために鳥を食べたエジプト聖ペテンブルグの神官、足に翼をつけたヘルメス、熱気球による有人飛行実験を成功させたモンゴルフィエ兄弟など、空気(風)は湧き上がる人の希望に働きかけ、現代でも物質的想像力を掻き立てる。それは、ビンスワンガーが「夢の中で鳥が飛翔することは、気分が上がる前兆である」と言うことと重なる。空気(風)は神話や御伽噺などにこのように使われてきた。そして「古事記」でも創造の神様であるイザナギノミコト(伊邪那岐尊)が朝霧を吹き飛ばそうとして、吹く息が神様になり、それが風の神様であるシナツヒコノミコト(志那都比古尊)が生まれたと言われている。

詩的な表現を臨床的に研究してきた精神科医ビンスワンガーは、統合失調症の失敗した3つの現存在「思い上がり、ひねくれ、わざとらしさ」という本を書いた。この「思い上がり」というあり方は、失敗なのであろうか。確かに「足が宙に浮いている」「足が地についていない」という言葉からも、いい印象を与えない。しかし何か宙に浮く瞬間に、普段気が付かない何かしらの眺めがそこにあるのかもしれない。


ヴィーダ教の神々の道具や武器、人類や動物の肉体を作ったトヴァシュトリ、目線を合わせるだけで石にしてしまうメデューサ、重力と人間の闘争をやり尽くしたアトラス、4元素を駆使して土を捏ね続ける鍛治職人や陶芸家など、土には人間の基盤を作る意志の作用があり、より物質的で堅実に想像力を現実化することができる。それは「地に足をつける」という言葉からもわかる。土は、このように神話や御伽噺、さらに生活の中でも使われてきた。そして「古事記」でも創造の神様であるイザナギノミコト(伊邪那岐尊)の糞便から、土の神様であるハニヨスノミコト(波邇夜須尊)が生まれたと言われている。

精神科の病棟で、時に糞便を壁に塗りつけたり、手で捏ねていたりする行為をみることが稀にある。それを安易に病状が悪いと片付けてしまって良いのだろうか。何か別の大事なことを考え忘れていないだろうか。特に頭を動かさずに、手で土を捏ねていく間に、何かしらのカタができていく。それは水との融合、空気との接触、火との闘争、その後に生まれるものが、もしかしたらわたしとあなた、わたしとせかい、わたしとワタシの間の偶像となるのかもしれない。


ところで、日常生活で地水火風がなくては、料理もできない、洗濯物も干せない、植物も育てられない、発電もできない、それじゃ心臓も動かせない、呼吸もできない、本当に生きていけない。身の回りの生活空間に地水火風があることを認識し、それぞれを目の前にしたときに、無意識的に物質的想像力の引き金として知覚し、あまり関係のない「電気」の存在を論理の飛躍を保ちながら、意識的に考えてみる。それらはビンスワンガーの言う「理想の追求」という「垂直」方向だけではなく、「経験の広がり」という「水平」方向に橋をかけるような試みになるのか、また人力の「回転木馬」が、電力の「メリーゴーランド」や「フェリス・ホイール」に変わるような装置になるのか。そのような実験を続けていく。

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