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志那都比古会を終えて



 空を飛ぶことは、どういうことか。人間は空を飛ぶために気球や飛行機を開発し、物理的な空飛びを実現してきた。しかし、本当の意味で空を飛ぶことは、物理的に飛ぶより、それを空想して思い上がることの方が大事な気がしていた。周りの顔を伺い、上に飛ぶよりは、左右を確認して行動するこの時代だからこそ。

 私はよく「足が地についていない」と言われる。今回はさらに足を宙に浮ばせ、どうにかこうにか、心も体も重力に逆らい、なんとか空に羽ばたこうと考えた。スピリチュアルに思いを寄せ、易占いを習得し、鳥を屋上に呼ぼうと洗濯機に餌を仕掛け、体を軽くするために鳥肉を積極的に食べた。そしたら、オウム真理教の麻原が足を組んだままジャンプしたことと似ているのかわからないが、やはり足元をすくわれた。なぜか仕事に支障が出て、横から棍棒で殴られ、今まで培ってきた私の妄想体系を破壊されたような体験があった。そして仕事も3日ほど休んだ。これが、ビンスワンガーの『精神分裂病』という本に出てくる、エレン・ウェストの「空を飛び、穴ぐらで絶望する」体験なのだろうか。いや、エレンの体験と一緒にしてしまったら、エレンに申し訳ない。エレンは、大好きなチョコレートボンボンが食べられなくなるほど精神の病で長く苦しんでいたが、徐々に調子が回復に向かい、これからという時にチョコレートボンボンを鱈腹食べて、自ら毒死することになったのだから。

 ここで自ら毒死するのは、宗教的かつ医学的、倫理的にあまり好ましいとは言えない。しかし何的になるのか、アガンベンの『到来する共同体』に出てくる「なんであれかまわない存在」的に、この毒死は、思考の活性化から身体の迷宮化、そこから来る想像力の暴走につながる。この暴走は内的もしくはフィクション的なインターネット上やアニメなどの仮想空間では頻発しているが、外的もしくは実存的な現実空間ではタブー化されているように思える。この状況は、不登校が増え、学校の廊下をバイクが走らない今の時代からもわかる。あからさまにこの暴走を促せばいいというものではないからこそ、現実空間にこの想像力の暴走が起こってもいいような「健康な意外性(中井久夫の『統合失調症』より)」を含んだ地盤を作ることはできないのかと思ってしまう。今こそ、私自身の破壊された妄想体系を再構築するため、この地盤を土を用いて作ってみようと思う。


 今月末からは土興しの会を予定している。土はゼロに戻ることができる機会を与えてくれる。どこに行っても、ゼロに戻れる場所がやはり必要なのだと思う。それは回転木馬がまた同じ場所に帰ってくることと同じだから。

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