火鴨が焼葱を背負ってきた
- 8 時間前
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新電気神殿メタコイノンにて、新たな試みとしての「神殿デコレーション」という、ひとつのプレ企画が立ち上がった。
これまで神殿では、四元素――地・水・火・風――を暦に沿って巡らせてきた。
四月から六月は地。
七月から九月は水。
十月から十二月は風。
そして一月から三月は火。
それぞれのタームにおいて、私たちはガストン・バシュラールの元素的想像力を参照しながら、空間と身体の実験を重ねてきた。それは力学であると同時に、空想の実践でもある。
これまでのデコレーションは、管理人ゼウスのふりをしたイカロスの、ほとんど単独の仕事だった。
その運動は、常に垂直へと向かう。
上へ。
さらに上へ。
垂直とは、人間にとって最も危険で、最も神話的な方向である。
上昇の先には、必ず墜落がある。
空へ舞い上がり、すぐに地へと引き戻される。
やはりイカロスはイカロスである。
そこで今回は、他者とともに手を動かすことにした。
垂直だけではなく、水平方向へも力をひらくために。
それでもなお、この行為は神のための儀式であり、
身体を媒介として空間を生成する試みであることに変わりはない。
垂直の衝動だけは、失われてはならない。
今季のテーマは火。
火は、はじまりの徴である。
エネルギーと活力の源。
暖炉。
家族。
そして、密かに盗み出されるもの。
火とは、人間が神から奪い取った最初の技術であり、同時に最初の神学でもあった。
精神科医ルートヴィヒ・ビンスヴァンガーは、人間の存在を「人間学的平衡」として語った。
何かを始めようとする、その最初の一歩。そこには、人には知られざる秘儀が必要とされる。
火を起こすとは、その秘儀のひとつである。
こうして「神殿デコレーション pre vol.2」として、三月、火のタームに、暖炉の神ヘスティアが招かれた。
そのほかにも、気の知れた身近な神々が駆けつけた。
ヘスティアの名は「炉」「暖炉」「祭壇」を意味する。その語源は、「燃やす」「住む」「夜を過ごす」「滞在する」という動詞の連なりに由来する。
さらにオイコス――家族、世帯、家――を守る神でもある。
古代の家は、壁によってではなく、火によって家であった。
炉があるところに、人は住み、食べ、眠り、そして死者を思った。
暖炉の消えてしまった現代の住処において、失われつつあるのは、この意味での火なのかもしれない。
新神殿では、まだ焚き火をすることができない。
それでも、なぜかほっと暖かくなる。
人が集まり、食卓を囲み、同じものを食べる。
それは、火を囲むという古い儀式の、別のかたちである。
火とは、燃焼そのものではない。
火とは、関係の距離感のことである。
人が多すぎれば、後ろの者には暖かさが届かない。近づきすぎれば、やけどをしてしまう。
家族であっても、そうでなくても。
火には、ほどよい距離感がある。
ヘスティアは、「鴨雑炊」をつくるという。
鴨をIHヒーターで熱したフライパンであぶり、昆布でだしをとった湯に家庭の秘伝を加えて、だし汁をつくる。
詳しいレシピは、そちらを参照してもらうことにする(※)。
神様たちは、同じどんぶりの飯を食らった。
火にあぶられた鴨。
三つ葉。
ぽろぽろの卵。
つけ置きした椎茸。
秘伝のだし汁。
そして焼き葱。
何より美味いのである。
ひとつのテーブルを囲み、五柱の神様が話をしながら箸を動かす。
椀に入れ、口へ運ぶ。
その反復。
この動作は、火を起こすことに似ている。
反復のあいだに、少しずつ火の子が生まれる。
それらが食道を越え、胃へと届くころ、心にぽっと火が灯る。
最後に、椀に口をつけて雑炊をすする。
心も、体も、暖かくなる。
ふと血族や祖霊のことを考えると、
お客である神々との暖かい食卓は、まるで火遊びのようで
人の火を神々が盗むという、プロメテウスの逆コンプレックスだ
この暖かい火は、徐々に大きくなっていき
コントロールできない炎にかわり
逆流性食道炎、まさに喉が焼かれていく
普段、天皇を感じる機会はほとんどないし、正直なところ特に興味もない。
それでも、鴨が好きで、天皇の近くで鴨を食べてみる。
天皇もまた、どこかで釜の飯を食べているのだろうか、などと思う。
釜の火。それもまた、ひとつの炉である。
気づけば、次の土のタームの話までできてしまった。
まさに「鴨が葱を背負ってやってきた」というやつだ。
人間であるイカロスは、ふと知る。
自分が再び、神の使者であるヘルメスになりたいと願っていることを。
垂直と水平のあいだを行き来する、あの神のように。




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